さくらプロジェクトのブログ

タイ北部チェンラーイで活動する山地民の子どもたちのための教育支援NGO「さくらプロジェクト」代表の三輪隆が綴るさくら寮での日々

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中村さん南方に死す

2007/11/28 17:19 ジャンル: Category:さくら寮日誌
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さくらプロジェクトの発起人であり、名誉顧問とでも言うべき存在だった中村清彌さんが亡くなった。88歳だった。
いつものようにタイを一人で旅行中、バンコクの定宿だったシャングリラ・ホテルにチェック・インしたまま翌日になっても部屋をでられなかったので、なじみになっていたホテルのスタッフがドアを開けて部屋に入ったところ、浴室の中ですでに亡くなっていたとのことだ。心臓発作らしい。

nakamura.jpg 中村清彌さん

中村さんと最後にお会いしたのは昨年の夏だった。その1ヶ月ほど前に亡くなったさくら寮のスタッフ、ジョイさんのお墓参りにチェンラーイまでわざわざきてくださったのだ。ヘルニアの手術をされたばかりで、10メートル歩くのが精一杯というほど体力が衰えていたにもかかわらず、ジョイさんのお墓にどうしても参りたいというお気持ちから、かなり無理をされたようだ。夜にはチェンラーイ市内のレストランにスタッフ、寮生20名を招待してくださり、楽しく食事をした。中村さんがチェンラーイにいらっしゃると、いつもそうしてスタッフを囲んで夕食をされるのがお決まりになっていた。

メーコック川を臨むレストラン、「リムナム」でビールを飲みながら食事をされるのがなによりお好きだった。

 中村さんは、ジョイさんが元気だった頃、ビールを飲んで上機嫌になると「私がもう少し若かったら、ジョイさんにプロポーズしていました」と冗談をいって高笑いされたものだ。そしていつも「私ももう年ですし、心臓に持病も抱えています。チェンラーイにこられるのもこれが最後かもしれませんから」というのが口癖だった。しかし中村さんは100歳まで生きられるのではないかと思えるほどお元気で、私などよりはるかに健康にも気をつけられていた。
中村さんとの出会いは今から17年前にさかのぼる。

30歳になって初めてアジアを旅し、タイ北部の山岳民族と出会った私は、彼らのスローだが地に足のついた生活と文化に魅せられ、その後数年間かけて、タイの山々の村を泊まり歩きながら、写真を撮り続けた。そして約4年間かけて1冊の写真集と1冊のトレッキング案内の本を作り終えた。もうタイでやることは残っていなかったにもかかわらず、なぜか帰る気分になれず、そのままずるずるとタイに長逗留を決め込んでいた。確たる目的も予定もなく、無為に時間がすぎていく日々が続いた。

そんなある日、チェンラーイの安宿で寝転んでいた私のところに、背筋のしゃんとしたスーツ姿の白髪の日本人が訪ねてきた。品のよさそうなその老人は、東京の有楽町にオフィスのある金属関係の会社の社長さんだという。
老人は自分の身の上話を語り始めた。

nakamura_R.jpg 
さくら寮での中村さん(2006年秋)

「私は第二次世界大戦の末期、あのインパール作戦で日本軍に従軍していましたが、白骨街道とまでいわれたあの過酷な戦地からなんとか生きのびて帰ってこられたのは、ビルマ(現在のミャンマー)のジャングルで右往左往していたとき、山岳地帯に住んでいた人々の助けとホスピタリティーがあったからです。今、私は山岳民族の人々に恩返しをしたいのです。私は老人で、もう体力は残ってはいませんが、あなたはまだ若い(当時私は35歳)し、いろいろな山岳民族の言葉ができるともお聞きしました。私の代わりに山の人たちを助ける力になってくれませんか。多少のお金であれば出します」

それは私がかつて愛読したアメリカの作家、ジャック・ケルアックの自伝的小説『路上』の中で、主人公サル・パラダイスの放浪生活の途上、ある日、街角に白髪の老人が現れて「他人のために嘆くようになれ」と言い残して去っていくという一節を髣髴させるような体験だった。この老人(当時すでに71歳だった)すなわち中村清彌さんとの出会いが、「さくらプロジェクト」を立ち上げるきっかけになった。

時を前後して知り合った芝浦工大の畑聡一教授とアカ族の村へ調査に同行したとき、なにか村人のためにできることはないだろうかという話になり、「山の子供たちのための生徒寮をやったらどうでしょうか」という提案をしたのも、その1ヶ月ほど前にお会いした中村さんの「三輪さんがもしなにかおやりになるのであれば、資金は出します」という言葉がぼんやりと私の耳に残っていたからだった。そのとき私はすべてが符号のようにある一つの道筋に向かって用意されているような感覚に包まれていた。

nakamura2_R.jpg 
ジョイさんの墓にて(2006年秋)

1991年春、さくら寮の建設が始まった。

以来、中村さんは年に数回のペースでタイにいらっしゃるようになった。

ここからは余談であるが、中村さんはさくらプロジェクトだけでなく、他のNGOの支援もされていたので、中村さんをご案内して、しばしばミャンマーとの国境地帯まで足を運んだ。まだカレン族軍とミャンマー政府が紛争状態にあった危険エリアにもたびたびお供した。中村さんの心にはいつもタイの向こう側のミャンマーがあったのだ。メーホンソン、メーサリアン、ターク、フアメカム、国境の向こう側から来た人を見つけると、片言のビルマ語を使って話しかけ、ビルマ語が通じないと悲しげな顔をされた。車で山道を走っているとき、道端で牛が放牧されているのを見ると、大声で「ハイ、ウア! ハイ・ウア!」と叫び「ビルマではこういって牛を追うんですよ」といって上機嫌で懐かしそうに話してくださった。中村さんの心にはいつも60数年前のビルマでの日々の幻影があったようだ。人間は自分の人生を決定的にした出来事やその場所に立ち帰る欲求に駆られるものだ。リアルを感じられる瞬間というのはそれが幸福なときであるかどうかは別として、一生の中でそう多くはない。中村さんにとってのビルマでの日々は、自分の人生を確かめるための深層の場所であり、人生でたち帰るべきイメージの故郷だったのかも知れない。


後日、娘さんの中村恵子さんからメッセージをいただいた。以下はその一部である。
「本人は遺言でも口頭でも『葬儀はしない』と繰り返しておりましたので、社員も黙祷のみで新年度の業務に励んでおります。『人間は裸で生まれて身体ひとつで亡くなり土にかえる。ジャングルのやしの木の下でひっそり旅立てたら本望』と父は申しておりましたが、やはり遺族にしてみればもう少し生きていてほしかったという気持ちもあります」
中村様のご冥福をお祈りする。 

nasi  jatoo 

さくら寮の生徒ナシー・ジャトーさん(中2)が描いた絵



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プロフィール

三輪隆

Author:三輪隆
1955年岐阜県生まれ。写真家・文筆家。タイ在住26年。さくらプロジェクト代表。

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