さくらプロジェクトのブログ

タイ北部チェンラーイで活動する山地民の子どもたちのための教育支援NGO「さくらプロジェクト」代表の三輪隆が綴るさくら寮での日々

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しみず館完成!

2009/04/28 19:45 ジャンル: Category:さくら寮日誌
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完成したばかりの新寄宿舎「しみず館」と寮生たち



白百合寮の裏に、さくら寮の新しい寄宿舎が完成した。ナムラット村の寄宿舎としては5つ目の建物だ。

これまでそれぞれ男子寮、女子寮として使ってきた、ひまわり館、すみれ館というふたつの施設は、子どもたちが通っている学校の敷地を賃借して建てられたものだった。その賃貸契約が今年8月で切れ、建物ごと土地を学校側に開け渡さなければならなくなったのである。それぞれ築15年、16年で、メンテナンスを怠らなければこの先まだまだ10年以上は使える頑丈な建物である。それを契約期限がきれたからといってあっさりと開け渡してしまうのはもったいない話だという意見もあるが、学校側にも当時と比べて生徒数が3倍に増え、手狭になったという事情があり、ここは涙を呑んで退却し、自前の土地に新しい施設を建設するとになったのだ。

さくらプロジェクトを立ちあげた当初は、20年先までさくらプロジェクトが存続するなどとは想像さえできなかったし、また自分自身が20年後にまだタイにいることすら思っても見なかった。というと無責任な話のようだが、実際、当時の支援プロジェクトの多くは10年ほど一定の使命をまっとうしていた。しかし、やはり見込みが甘かったのは事実である。開発当初のコンピューターのプラグラマーたちが、人類が21世紀まで生き延びるとは想像できないまま(かどうかは知らないが)、「2000年問題」対策を怠ったために混乱を招いたように、さくらプロジェクトもまた「20年先問題」というものを考えずに、その場しのぎ的にここまできてしまい、今になってあたふたしている。

若い頃、旅先のネパールで、気がつくとネパールのポカラに7年も住み着いていたという日本人と会って、なんとまあ酔狂な人もいるものだ、こういう浮世離れした人の気が知れないとあきれたものだが、私は気がつけばチェンラーイに彼の3倍の21年も住んでしまった。光陰矢の如しである。  

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しみず館は女子寄宿舎として使用
 

ここでさくらプロジェクトの設立のいきさつを紹介する。

今から19年前の1990年のことだった。その頃すでに5年近くもチェンラーイあたりでくすぶっていた私は、当面の目的だった写真集やガイドブックの仕事も終わり、そろそろ日本に帰ってあの殺人的な忙しさの雑誌ギョーカイに復帰するのか、タイにとどまって夢の続きを見るのか、決断しなければならない期限が差し迫っていた。

そんなとき、ゲストハウスで寝転がってタバコをふかしていた私のもとに一通の手紙が届いた。東京の芝浦工業大学建築工学科の畑總一教授からで、近くチェンラーイのアカ族の村で集落調査をするつもりなので、案内役兼通訳として協力してほしいという内容だった。無文字文化の共同体の集落形成や住居建築のありかたから都市建築計画のヒントを探るといったいわゆる建築人類学的な手法だ。建築学には関心がなかったが、私にしてみればまたもタイにい続けられる執行猶予期間が延びたようなもので、お断りする理由もなく、好物の大福餅を土産に持ってきていただくことを条件にお引き受けした。こうして1990年の秋から1991年の春にかけて、数度にわたって畑教授と学生さんたちの調査チームに帯同し、アカ族の村の民家に宿泊しての調査が行われた。

第一回目の調査が終わって村を降りる前の夜だったか、村の男性たちから子どもたちの教育を支援してほしいという相談を受けた。その村にはすでに小さな小学校があったが、教員は圧倒的に不足しているうえに、赴任してきたタイ人教師は、いつのぞいてもまともに授業をしているようには見えなかった。子どもたちはいつまでたってもタイ語すら読み書きができない状態だった。保護者たちにはレベルの高い町の学校に子どもを下宿させるような経済的余裕はなく、学歴社会のタイにおける子どもたちの行く末を切実に心配していた。窮状を訴える村人たちの目は、こちらがちょっとたじろぐほど、真剣そのものだった。

畑教授と何度か話し合いを重ねた結果、この村のアカ族の子どもたちを手はじめに、山岳民族の教育支援活動をすることになった。日本の事務局は畑研究室が引き受けてくださり、現地のコーディネートは私が担当することになった。寄宿舎の建設費300万円はすでに提供を申し出てくれている人があった。子どもひとり年間5万5千円ほどかかる運営費は里親制度という形で一般から募集することになった。ときはバブルの末期で、支援者も予想外に順調に集まり、ナムラット村のサハサートスクサースクール(50年ほど前から各地の山岳民族の子どもたちを受け入れてきた私立の小中学校)の近くに最初の寄宿舎「さくら寮」の建設が始まった。

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18年前のさくら寮オープンのときの写真。あの頃僕も若かった♪


こうしてさくらプロジェクトがスタートした。

話はとんとん拍子に進んだかに見えた。 私も2、3年このプロジェクトの面倒を見たら、後は現地の人にでも運営を任せてフーテンの寅さんのように再び放浪の旅にでも出ようと考えていたが、世の中それほど甘くはなかった。安心して運営をまかせられるような現地の人が現れず、毒も食らわば皿までと、つぎつぎとふりかかる困難と格闘している間に18年がたってしまったというわけである。

そのあたりの話はまたいずれかの機会に。

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初代さくら寮のダイニングルーム。
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プロフィール

三輪隆

Author:三輪隆
1955年岐阜県生まれ。写真家・文筆家。タイ在住26年。さくらプロジェクト代表。

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