さくらプロジェクトのブログ

タイ北部チェンラーイで活動する山地民の子どもたちのための教育支援NGO「さくらプロジェクト」代表の三輪隆が綴るさくら寮での日々

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異文化と他者

2008/02/23 18:00 ジャンル: Category:さくら寮日誌
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ラフ族のホイプーマイ村という村で、ナンタワット・ナデ君(28歳)の結婚式があって、出席した。彼はさくら寮の第3期生で、大学を卒業したあと、ドイトゥンのロイヤルプロジェクトで働いている。奥さんもラフ族のかたで妊娠5ヶ月。いわゆるひとつの「できちゃった婚」ではあるが、まあそんなことはよろしい。うれしいのは、卒業して10年もたっているのに、ちゃんと忘れずにさくらのスタッフを招いてくれたことである。

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すでにさくら寮の卒業生の100人以上は結婚して家庭を持っていると思われるが、そのうち結婚式に招いてくれるのはほんのひと握りである。もちろん結婚したときの状況などにより、生活に追われてささやかな披露宴さえ開くことさえできない、あるいは若すぎる結婚や周囲から祝福されざる結婚、もしくはできちゃった婚の恥ずかしさなどで、招きたくてもなんとなく気が引けるなど、それぞれに事情もあるだろうが、たいていの人は「過去のことなんて覚えちゃいねえ。関係ねえ、関係ねえ」ということなのかもしれない。ここでは多くの人々が「今、ここ」だけで生きている。すぎてしまった日々を回顧もしないし、郷愁も未練も後悔も抱かない。歴史や過去に敬意を払わず、記憶を糧としない生き方を、多くの日本人は「貧しい」生き方だと感じるだろうが、別に彼らを恩知らずと罵るつもりもない。それは彼らの文化社会の中ではいたって普通のことであるからである。しかしやっぱり、たまに、ナンタワット君のように卒業生が声をかけてくれると素直にうれしいものだ。

さて、このところ、寮の中で物や現金が紛失する事件があいついだ。同室の寮生が盗んだことがわかった。先日は、寮生数名が、学校の欠席届けの書類を事務所から勝手に持ち出し、スタッフのサインを真似て署名して学校に提出し、スタッフの知らない間に学校をさぼっていたという事実が発覚した。どうして、またこんなあからさまに犯人がバレバレの犯行を、どうしてまたこんな見え透いた嘘を、ということが実に多い。

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こちらでタイの人々やさくら寮の子供たちと接していると、さまざまな場面で違和を感じることも多い。食文化や習慣の違い程度であれば、差異を楽しむ心の余裕もあるが、それがこと自分の倫理観や信条に照らし合わせてどうしてもゆずることができない一線を越えていたりすると、頑ななる自我が異議を唱え始める。要するに同じ感覚を持ち合わせないことが歯がゆく、さびしくなるのである。

しかし自明なことだが、私たちが支援しているのは、異民族という「他者」である。

私はキリスト教信者ではないが、キリストのいう「汝の隣人を愛しなさい」とは向こう三軒両隣りの住人と仲良くしなさいという意味ではなく、「他者への愛」のことであるぐらいのことは心得ている。自分が理解可能なものへのみ向けられる愛は、「自己愛」にすぎない。愛とは理解不能な他者を、それでもなお許容することである。

 「だが、お前たちは自分の敵を愛しなさい。そして、お返しを何も期待せず、善いことをなし、貸しなさい。……なぜなら、至高なる者こそ忘恩の人々に対して親切な方だからである」(ルカ伝)

異質なるゆえに「他者」は排斥の対象であるが、半面、関心や憧憬の対象にもなる。

そもそも私が日本を飛びだした20年前、私は日本での日常の中に「他者」を見いだせないでいたのだと思う。情報のバブルと精神的モノカルチャー化が進む社会の閉塞感の中で、すべての風景が、―恋人でさえもが―あたかも自己の鏡像のように感じられた。だからこそタイという、わかりやすいほどに端的な異文化との出会いに、あれほど魅了させられたのだと思う。だからタイに来て間もない頃は、日本にいたとき以上に「人」がリアルに感じられ、惚れっぽくもなった。思考も感性も己の分身のごとく知りすぎた相手よりは、何を考えているかわからないような未知の対象に関心が向かうのである。もとより恋愛が可能になるのは相手が「他者」であるからである。
 


 けれども、人間とはずいぶん勝手なもので、他者の他者たるゆえんの部分が鼻についてくると、今度は拒絶反応を起こしたりもする。互いの異質さに魅かれあって結婚した男女が、最後は「所詮、お互いに価値観も住む世界も違ってたんだよね」と捨て台詞を吐いて別れるように。「他者」は愛の対象であり、一歩間違えば憎さ100倍の敵にもなる。

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私自身のことを言えば、さくら寮で子供たちとともに暮らしていて、日々「他者」の意外性に直面するそのカルチャーショックが新鮮で、それが楽しくてしかたがない時期もあったが、年月がたつにつれ、その彼らの中の「他者」性がときにうっとうしく、腹立たしく感じられることも多くなった。(もちろん、子供たちの思いがけないやさしさにふれて、その懐の深さにこちらが恥じ入ったり、突き抜けた明るさに励まされたり癒されることもしばしばだが)そうして「他者」に対峙するのがついに耐えられなくなると、お山に行くのも、寮の子供たちと接するのさえも億劫になって、かつて自分が慣れ親しんだ文化領域に自閉し、部屋にこもってインターネットや活字の世界に浸ったりするのである。

そして自分の慣れ親しんだ文化領域というのが、実のところ、「戦後民主主義」をお題目のように叩き込まれ、アメリカのポップスなどを子守唄にして育った私のような世代の場合は、真の伝統からは切断された、アメリカ的なサブカルチャーのジャンクでうすっぺらな世界にすぎなかったりすることに気づいて愕然としたりするのだが。日本から逃れても、「アメリカの影」から逃れるのは容易なことではない。であるから、こちらの人の文化や品格がどうのこうのとは、恥ずかしいから言わないことにする。 
 

写真1~3:ナンタワット君の結婚披露宴。

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こちらは卒業生チュチャート君の「婚約の儀」

 

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プロフィール

三輪隆

Author:三輪隆
1955年岐阜県生まれ。写真家・文筆家。タイ在住26年。さくらプロジェクト代表。

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